
副会頭 牧野 孝祐
(三菱商事株式会社 マレーシア総代表 クアラルンプール支店長)
今回、執筆の依頼を受け、何を書いたら良いか分からず、皆様の過去の作品を再度拝読させて頂きました。自分ならではの「思い出のゴルフ」に思いを馳せ、筆を進めさせて頂きます。
昨年末、尾崎将司さんが享年78歳にて永眠されました。「ジャンボ」の名で親しまれ、日本男子ゴルフツアーでは最多94勝を誇り、そのカリスマ性からも日本ゴルフ界の象徴的存在でした。現役時代を御存知ない若い世代の皆さんは、原英莉花、笹生優花、西郷真央、更には2025年国内女子ツアー年間女王の佐久間朱莉などを育てた師匠として御存知かもしれません。そのジャンボがライバル視し、激戦を繰り広げたのが青木功と中島常幸。所謂「AON時代」は1970年代後半から1990年代前半にかけて10数年続きました。
1988年、東京ゴルフ俱楽部での日本オープン決勝は圧巻。最終日に首位争いがAONの3人に絞られ、ジャンボが逆転優勝。最終18番ホールのグリーン上、あのジャンボが約70cmのパットを2回仕切り直し、深呼吸して3回目で漸くパットしてカップに沈めたシーンは、その後のインタビューでの「手が震えて動かなかった」という言葉と共に記憶に残っています。
当時の私は17歳、高校2年生でした。ゴルフが好きになった切っ掛けは、向太陽のお陰かも知れません。彼は1981年から10年間、少年週刊マガジンに掲載された『明日天気になあれ』というちばてつや作の漫画の主人公。旗包みを得意とした『プロゴルファー猿』というアニメもありましたが、リアリティの観点で向太陽の世界にのめり込んでいきました。読み始めたのは私が小学生の頃。
中学生だった彼は河川敷での練習からはじめ、「チャー・シュウ・メーン」のリズムでスイングを続けて史上最年少でプロになり、バレステロス、トレビノ、そして杉原輝夫、青木功とも対戦。最後は全英オープンの地セント・アンドリュースへ。現実との強いシンクロが当時の私をワクワクさせてくれました。逆に、現実の世界で観た1983年のPGAツアーのハワイアン・オープンで、青木功が日本人初、アジア人としても初の優勝を手にした最終日、最終ホールでのチップイン・イーグルは寧ろ漫画でした。
公務員だった私の父はゴルフを全くやっていませんでした。家にゴルフの道具も一切無く、学生時代の私の「思い出のゴルフ」は、専らテレビでの観戦と漫画の世界でした。
1994年に三菱商事に入社。練馬区の大泉学園にあった寮に入りました。新青梅街道を車で20分くらい走らせると田無に夜中までやっているゴルフ練習場があり、平日の夜、残業後に同期数人で頻繁に行くようになりました。全員ど素人。ゲーム感覚で約250ヤード先にあるネットのターゲット目掛けて、若さだけを武器にドライバーを振り回していました。
当時はまだバブルの余韻が残っており、社外の方々との仕事のお付き合いやコンペ、社内でも部長杯やら本部長杯がまだ頻繁に行われていました。ちょっと調べてみたところ、日本のゴルフ人口のピークは1994年の約1,450万人だそうです。因みに現在は約560万人。バブル期に中尊寺ゆつこが流行らせた「おやじギャル」の影響もあり、もともとオヤジの王道文化であったゴルフを「若い女性が敢えてやるのが格好いい」と女性ゴルファーも増えていました。やるからには上手くなりたい。ゴルフ場と練習場へ通い詰め、入社2年目で100切りを果たしました。
その後、サッカーとサーフィンに週末を奪われる様になっていき、ゴルフクラブも埃をかぶり、錆びつく一方。成長に繋がったのは、やはり海外駐在期間中のゴルフの頻度でした。2000年にデュッセルドルフに4か月間ほど出張しましたが、冬でもありゴルフの機会には恵まれず。
次の長期出張で2005年に滞在したロンドンで、ヨーロッパゴルフの聖地とも言われるWentworth Clubで3回プレイさせて頂きました。そして、2007年から約3年半を過ごしたパースは充実したゴルフライフとなりました。最も数多くプレイしたのはThe Vines。
メンバーシップが個人に紐付かない法人会員として登録出来るので、日本企業の多くがメンバーとなっており、毎週末の集い場となっていました。ワイナリーの中にあり、コース内の木陰では多くのカンガルーが昼寝しているのどかな環境。
パースはクアラルンプール同様、駐在員に加えてリタイヤ後の日本人が大勢いらっしゃいました。「日本人にとって住みやすい街」の上位として繰り返し評価され、2000年頃には現在のマレーシアのMM2Hに似たリタイア移住モデルが存在していました。
そんな先輩方で構成される日本人会ゴルフコンペが月に一回開催されていましたが、「敷居が高い」と駐在員の参加は殆どない状況でした。鈍感力の強い私は「Vinesばかりではつまらない」という理由だけで、この日本人会ゴルフに飛び込み、Royal Perth Golf Club、Mount Lawley Golf Club、Lake Karrinyup Country Club、The Western Australian Golf Clubといった個人会員の同伴が必須で普段は出来ない素晴らしい名門ゴルフ場でのラウンドを楽しませて頂きました。
30代後半のアラフォーの私を「最若手」としてからかって頂けたのも、仕事の環境とは異なり、居心地のよい場所でした。また、個人でもHartfield Country Clubというリーズナブルなゴルフ場の会員になり、ローカルの人達とのゴルフを楽しんでいました。街の中心から近く、パブリックとは思えない程きれいなWembley Golf Course、Collier Park Golf Courseでは、夜明けの早い夏は出社前に9ホール。ほとんどのゴルフ場は車で40分以内。この素晴らしい環境でハンデキャップは14になっていました。

パースから帰任し東京生活に戻ると、ゴルフの頻度は年間3回程度に激減。当然、ゴルフ熱も実力も下がるのみ。復調は次の海外駐在を待つことになりました。2015年3月末にシンガポールへ。会社からSentosa Golf Clubが割り当てられました。ここでは「やる」だけでなく、「観る」も充実していました。
毎年1月のSMBC Singapore Openでは、2016年はアダム・スコット、ジョーダン・スピース、2017年はマスターズ優勝直後のセルヒオ・ガルシアに18ホールついて観戦させて頂きました。異次元で全く参考になりませんでしたが・・・。
そして3月にはLPGAツアーの世界ランキングTOP層だけが招待される大会、HSBC Women’s World Championshipがあり、2016年はリディア・コ、宮里美香、2017年はパク・インビ、アリヤ・ジュタヌガーン、2018年はミシェル・ウィー、ネリー・コルダ―などのゴルフを間近で堪能。
クラブの番手毎の飛距離が自分と殆ど同じ、いつもやっている同じゴルフ場での彼女たちのプレイは勉強になりました。ショットの精度が全く違いましたが・・・。そして、これらの大会の翌週末に、プロのプレイを思い出しながら殆ど同じコースコンディションでラウンドするのは最高でした。決して同じようには出来ませんでしたが・・・。

その他にもSingapore Island Country Club (SICC)、Tanah Merah Country Clubでよくラウンドさせて頂きました。物価の高いシンガポールでは、ゴルフ場の食事代がリーズナブル。お客様との会食の場としても活用し、特にTanah Merahのフィッシュヘッドカレーは定番でした。
シンガポールでの平和な生活は長くは続かず、ハンデキャップ削減への取組みも11で停滞している状況で、2017年4月、パキスタンはカラチでの長期出張がスタート。約1年間のホテル生活を経て駐在ステイタスに切り替えることになりました。
2022年3月まで、コロナ禍での日本退避の期間を除くと約4年間のカラチ生活。人口2千万人強のパキスタン最大都市カラチの日本領事館からの在留邦人向け御指導は「徒歩での移動は極力避ける」、「ドライバー付き車での移動を基本とする」、「日中であっても単独行動を避ける」、「デモ・人混みに近づかない」でした。
よって、外は歩かず、ドライバーの運転、助手席にはボディガード、という車での移動が常でした。その抑圧された生活の中での憩いの場が、軍の基地の塀の中で守られているゴルフ場でした。ここでは外を歩けました。他に出来ることもなく、週末を4コマに見立てて土曜2回、日曜2回、早朝と夕方のゴルフ。プロジェクトの立ち上げで連れて行った部下と共に4~6名で一つ屋根の下で共同生活を送っており、通勤もゴルフも1~2台の車で一緒にという判で押したような行動の繰り返しでした。
カラチ中心部にはKarachi Golf Club、DHA Country & GC、Airmen Golf Clubと3つのゴルフ場があり、ローテーションしていましたが、流石に今でも全てのコースを覚えているくらいの回数を積み重ねました。Karachi Golf Clubは名門Sindh Clubの施設の一部として1888年につくられ、1891年に独立したゴルフクラブとして設立されました。1893年のRoyal Selangor Golf Clubよりも少し前ということなります。
インドのカルカッタやマドラスのアジア最古級ゴルフ場同様、イギリスの植民地の最前線につくられた統治インフラです。コストの話をしますとゴルフのプレイフィーは2,000~3,000円でしたのでメンバーになる必要はなく、キャディフィーは約600円というレベル。因みに、運転手の月給は約2万円、ボディガードは約3万円という水準。
カラチで雨が降るのは6~9月のモンスーンシーズンに年間約20日程度、他の時期は殆ど雨が降らず乾燥しており、ゴルフ場のコンディションもフェアウェイにかろうじて緑、その外側は土か砂、グリーンは緑ではあるもののボサボサでキャディーのパッティングのアドバイスはいつも「ストレート、強め」でした。
車で一時間くらい離れたところにもう一つ、Arabian Sea Country Clubというゴルフ場があり、月に一度、日本人会のゴルフコンペがそこでありました。ゴルフ頻度マックスだった当時、奇跡が起こりました。その様なコンディションのゴルフ場ですのでカラチではいいスコアも出ていたのですが、2019年3月31日の50名参加のコンペで、5バーディ、1ボギー、残りはパーのトータル4アンダー、グロス68。まさに漫画の世界。何をやっても上手くいく日でした。この日の成績表は後生大事に保存してあります。
カラチから東京に戻ったのは2022年3月末。2年間の東京勤務を経て、2024年3月末よりクアラルンプールに赴任しております。衰える飛距離と闘いながらのゴルフではありますが、皆様との交流の場として楽しませて頂いております。
パース、シンガポール、カラチと異なる環境でそれぞれの「思い出のゴルフ」を紡いで参りましたが、ここマレーシアでも多くの皆様といい思い出をつくっていきたいと思っておりますので、お付き合い頂けましたら有難いです。
以上